画家名 | 生没年 | 代表作(制作年) | 備考・その他 |
クロード・モネ | 1840 〜 1926 |
「ラ・グルヌイエール」(1869) 「印象、日の出」(1872) 「アルジャントゥイユの橋」(1874) 「散歩、日傘をさす女性」(1875) 「ラ・ジャポーネーズ」(1875〜76) 「サン・ラザール駅」(1877) 「戸外の人物習作(右向きの日傘の女)」(1886) 「戸外の人物習作(左向きの日傘の女)」(1886) 「積みわら、夕陽(積みわら、日没)」(1890-91) 「ルアーン大聖堂・・・・」(1893) 「ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝」(1897) 「ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光」(1902) 「睡蓮」(1914〜17) 「日本風太鼓橋(日本の橋)」(1918〜24) |
1840年パリにまれる。1845年に港町ル・アーヴィルに移住。1856年頃、ウジェーヌ・ブータンと出会い戸外での制作の重要性を教わる。1859年19歳の時、パリの画塾(アカデミー・スイス)に入り、ルーブル美術館で模写を行った。画塾ではピサロ、ルノワール、シスレー、バジールらと出会う。その後、彼らと戸外でスケッチを行った。変化する光を描くために彼は連作という同じ景色を数点制作する手法を取り入れた。「連作の画家」であり続けた。 |
カミーユ・ピサロ | 1830 〜 1903 |
「曳船道(マルヌ河の岸辺、荷を運ぶ小道」(1864) 「ラ・ロッシュ=ギュイヨンの広場」(1867) 「ポントワーズのコート・サン・ドニ(赤い屋根)」(1877) 「リンゴ採り」(1886) 「エラニーの干草の取り入れ」(1892) 「干草の取り入れをする女たち、夕暮れ エラニーにて」(1893) テュイルリー公園の午後」(1900) |
1830年西インド諸島のサント・トーマス島に生まれる。25歳で画家を目指しパリに出る。1855年パリ万博でコローなどのバルビゾン派の風景画に感銘し、パリ近郊で制作した。1860年代末からポントワーズのエルミタージュ集落に移り、そこで田園風景や農民を描いた。若手の画家をまとめ印象派展を開催。1884年エプト河畔の小さな村、エラニーに移る。1891年眼病のため戸外での制作を中止する。 |
アルフレッド・シスレー | 1839 〜 1899 |
「アルジャントゥイユのセーヌ河」(1872) 「ポール・マルリーの洪水」(1876) 「朝の日差しを浴びるモレの教会」(1893) |
英国籍でパリ生まれ、18歳でロンドン留学し、イギリスの風景画家の作品に感銘を受ける。パリに戻り本格的に美術(シャルル・グレール画塾)を学び、生涯風景画を制作し続けた。 |
エドガー・ドガ | 1834 〜 1917 |
「競馬場の馬車」(1869) 「オーケストラ席の音楽家たち」(1870〜72) 「舞台のバレエ稽古」(1874) 「カフェ・コンソール」(1876〜77) 「エトワール」(1877) 「手袋をした歌手」(1878) 「アイロンをかける女たち」(1884) 「浴槽の女性」(1891) |
1855年に名門エコール・デ・ボサールに入学。 1856年から3年間イタリアでルネサンス芸術を学ぶ。1865年サロンで入選後、都会的モチーフを描く。「踊り子の画家」としても有名。パリ人の孤独感や都市労働者を好んだ。視力が低下してもパステルや写真に熱中し、蝋で小さな彫刻も制作した。 |
ピエール=オーギュスト・ルノワール | 1841 〜 1919 |
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876) 「シャルパンティエ夫人とその子供たち」(1878) 「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」(1880) 「舟遊びの昼食」(1881) 「田舎のダンス」「都会のダンス」(1883) 「草原で花を摘む少女たち」(1890) 「ピアノに寄る娘たち」(1892) |
13歳で陶磁器の絵付け職人見習いをはじめ、20歳からシャルル・グレール画塾で学び、その後パリの大衆を生き生きと描いた。子供の肖像画ではブルジョワ階級の人気を博した。 |
ベルト・モリゾ | 1841 〜 1895 |
「ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘」(1881) 「桜の木」(1891) |
裕福な家庭の育った女流画家。コローに師事。その後、マネの影響を受ける。マネの弟と結婚。 |
メアリー・カサット | 1844 〜 1926 |
「オペラ座の黒衣の女」(1879) 「家族」(1891〜92) |
ドガに影響を受けた裕福なアメリカ人女性画家。母子像の心理描写が特徴。版画も多い。 |
ギュスターヴ・カイユボット | 1848 〜 1894 |
「床を削る人びと」(1875) 「バルコニーの男(窓辺の若い男)」(1875-76) 「ヨーロッパ橋」(1877) 「パリの通り、雨(パリの街角、雨)」(1877) |
ブルジョワ画家であり、遠近法を強調する独自の画風を確立し、印象派展や印象派画家のスポンサーとして彼らを支えた。 |
ジャン=バティスト・アルマン・ギヨマン | 1841 〜1927 |
「パリ、セーヌ川の眺め」(1871) 「イヴリー河岸の日没」(1873) 「ベルシー河岸〜雪の印象」(1873) 「パリに流れるセーヌ川」(1874) |
16歳でパリに移り叔父の小売店で働き、20歳で画塾に入学し、セザンヌやピサロと知り合う。 1870年ころから戸外制作をはじめ、セーヌ河畔や工場風景なども好んだ。50歳(1891年)の時に宝くじで大金(10万フラン)を得て、その後制作に専念する。 |
ジャン=フランソワ・ラファエリ | 1850 〜 1924 |
「にんにく売り」(1880) 「カフェのボヘミアンたち」(1885) |
1850年リヨンで生まれる。1870年、20歳でサロンに風景画が初入選。21歳でエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学するが3ヶ月で辞める。1884年、34歳で個展を開催。1889年、パリ万博に作品を展示。1909年回顧展を開催し、200点以上の作品を展示。 |
画家名 | 生没年 | 代表作(制作年) | 備考・その他 |
ポール・セザンヌ | 1839 〜 1906 |
「オーベール=シュル=オワーズの首吊りの家」(1873)「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」(1885-87) 「赤いチョッキの少女」(1888-90) 「リンゴとオレンジ」(1895〜1900) 「レ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山」(1904〜06) |
1839年エクサン・プロヴァンスに生まれる。18歳で地元の素描学校で学ぶ。1861年22歳でパリに出て、アカデミー・スイスに通う。この頃、マネを中心とする若手画家たちに合流した。1872年ピサロの勧めで家族でパリ郊外のポントワーズに移る。1895年ヴォラールの画廊で初めての個展が開催。 |
ポール・ゴーガン | 1848 〜 1903 |
「黄色のキリスト」(1889) 「黄色のキリストのある自画像」(1889) 「われらいずこより来るや、われら何なるや、われらいずこに行くや」(1897) |
1848年パリに生まれる。生後1年でペルーに移住するがその船中で父が急逝する。1855年家族はフランス(オルレアン)に戻る。17歳で商船の船員になる。24歳パリの株式仲買商ベルダン商会に勤務し、この頃から絵を描く。1891年43歳でタヒチに滞在。 |
ジョルジュ・スーラ | 1859 〜 1891 |
「アニエールの水浴」(1883〜84) 「グランカンのル・ベック・デュ・オック(オック岬)」 (1885) 「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884〜85) |
1859年パリに生まれる。1878年19歳でエコール・デ・ボザールに入る。翌年、志願兵として兵役につく。色彩と光学理論に興味を持ち、点描技法を考案。1886年「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を第8回印象派展に出品し賛否両論を得る。 |
オディロン・ルドン | 1840 〜 1916 |
「眼=気球」(1878) 「ペイルルバードの径」(1885〜1890) 「眼をとじて」(1900) 「トルコ石色の花瓶の花」(1911) *第8回印象派展に参加し、後に抽象主義の画家として活躍。 |
1840年ボルドーに生まれる。すぐにボルドーから北西に30キロ程離れたペイルルバードの親類の老人宅に里子に出される。11歳で生家に戻り学校教育を受ける。20代のころは植物学と文学に興味を持った。1864年パリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門するが数か月でやめ、ボルドーに戻り、25歳で銅版画家ブレスダンに師事。1870年普仏戦争に従軍。1872年からパリに定住。1879年39歳の時に最初のリトグラフ集「夢の中で」を発表。1886年長男ジャンが生まれるが、僅か半年で亡くなる。1889年次男アリが生まれる。1890年頃からそれまでの作品と打って変わって、油彩やパステルで作品に豊かな色彩を用いるようになる。 |
ヴィンセント・ファン・ゴッホ | 1853 〜 1890 |
「モンマルトルの風車」(1886年) 「古靴」(1886) 「アルルの跳ね橋(日傘の夫人」(1888) 「夜のカフェテラス」(1888) 「ひまわり」(1888) 「星降る夜、アルル」(1888〜1889) 「アルルのゴッホの寝室」(1889) 「星 月 夜」(1889) 「糸杉と星の見える道」(1890) 「ガシェ博士の肖像」(1890) 「オーヴェールの教会」(1890) |
1853年、オランダ北部ブラバンド地方に生まれる。1869年16歳の時、グーピル商会のハーグ支店に就職。20歳でロンドン支店に転勤。25歳の時に解雇される。1886年33歳でアントワープの美術学校に入学。3月パリに出てフェルナンド・コルモンの画塾に通うが、4ヶ月で去る。この年に行われた第8回印象派展でスーラの絵画を見て点描技法の研究を始める。1888年アルルに移り、ゴーガンと共同生活を送るが2ヶ月で破局。翌年、サン・レミの精神療養院に入る。1890年7月29日弟テオに看取られてオーヴェール・シュル・オワーズで死去。 |
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック | 1864 〜 1901 |
「ゴッホの肖像」(1887) 「ムーラン・ルージュにて、ダンス」(1890) |
1864年伯爵家に一人息子として生まれる。15,6歳の時に相次いで左右の足を骨折。その後、画家を志す。17歳でパリに出て絵画の勉強を始める。18歳でコルモンの画塾に入る。1891年27歳で制作したムーラン・ルージュのポスターが評判となる。1899年アルコール依存症の発作がひどくなり、精神病院に入院。1901年37歳、ボルドー近郊の母の城で死去。 |
回 | 開催年 | 開催者・参加者 | 主な出展作品 | その他・備考 |
1 | 1874年 4/15 〜 5/15 |
画家・彫刻家・版画家などによる共同出資会社。参加者30人。 主な参加者:モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレー等 |
「印象、日の出」モネ 「オーヴェール・シュル・オワーズの首吊りの家」セザンヌ 「桟敷席」ルノワール 「白い霧」ピサロ |
写真家・ナダールの写真スタジオが会場。(サロンに多く出展される写実風の作品に対抗したのかもしれない。)全160作品以上が展。 作品の売却が主な目的であったが、批判が多かった。美術評論家のルイ・ルロワが「印象、日の出」をもじって「印象派」と名づけた。 総入場者数は3500人。(当時のサロンは約40万人) |
2 | 1876年 4/11 〜 5/9 |
参加者19名 | 「散歩、日傘をさす女性」モネ 「オフィスでの肖像」ドガ 「ポール・マルリーの洪水」シスレー 「床を削る人びと」カイユボット |
デュラン=リュエルの画廊が会場。批判が多い中、ゾラやマラルメなど注目された。 |
3 | 1877年 4/4 〜 4/30 |
カイユボットを中心に準備された。参加者18名。 | 「サン・ラザール駅」モネ 「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」 ルノワール 「カフェにて(アプサント)」ドガ 「パリの通り、雨」カイユボット |
アパルトマンの2階で開催。全240点。 会期中に週間新聞「印象派」が発行された。 |
4 | 1879年 4/9 〜 5/11 |
参加者15名 | 「フェルナンド・サーカスのララ嬢」ドガ 「桟敷席にいる真珠の首飾りをした女性」カサット 「カヌー」カイユボット |
オペラ座通りのアパルトマンで開催された。ルノワール、シスレー、セザンヌが抜けた。ドガやその仲間たちの風俗的作品が中心となった。入場者数は15,000人以上だった。 |
5 | 1880年 4/1 〜 4/30 |
ドガは独立展と主張し、カイユボットは印象派の第5回展と主張し対立した。 | 「少年たちに挑戦するスパルタの少女たち」ドガ 「5時のお茶」カサット 「セーヴルのテラスにて」マリー・ブラックモン |
ピラミット通りの改装中建物。モネも抜け、カイユボットと対立しながらドガを中心とした展示となった。ドガが推薦したラファエリが評価されたが、革新性・実験的作品がなく印象派展と別物と評価された。 |
6 | 1881年 4/2 〜 5/1 |
参加者13名 | 「14歳の小さな踊り子」ドガ 「アプサントを飲む人たち」ラファエリ 「裸婦習作」ゴーガン |
ドガが抜けたが、彼の仲間のリアリスム系の作品が多数を占めた。 カサットとモリゾの女性画家が評価されたが、展覧会としては失敗。 |
7 | 1882年 | 画商デュラン=リュエル | 「セーヌ川の夕暮れ、冬」モネ 「舟遊びの昼食」ルノワール 「店先に並べられた果物」カイユボット |
サン・トレノ通りのパノラマ館で開催された。ドガの影響も抜け、デュラン=リュエルによって再び印象派画家が集まり、開催されたと言われているが、出展を拒んだ画家もいてデュラン=リュエルの所蔵作品なども展示された。 |
8 | 1886年 5/15 〜 6/15 |
最後の印象派展、ドガの再登場で閉幕 | 「リンゴ採り」ピサロ 「グランド・ジャケット島の日曜日の午後」スーラ 「水浴の女たち」ゴーガン 「秘密(囚われ人)」ルドン |
ピサロとドガが中心となった。新しい印象派また印象派を越える作品が展示された。スーラやシニヤックは新しい色彩理論を元に点描技法にて出展し注目された。 |